キッドセカンドカンパニーが生まれるまで
1969年に設立された東京キッドブラザース(当時は「東京キッド兄弟商会」)は、
翌年1970年にニューヨーク、71年にはヨーロッパへ渡り華々しいスタートを切った。
日本に足をつけて公演活動を始めたのは、「ザ・シティ」での失敗を経た75年頃だろう。
加川良主演、坪田直子、柴田恭兵らがデビューした「十月は黄昏の国」以降、90年代
までキッドを支えた役者たちが続々と入団する。
この頃までキッドは、一作ごとにオーディションをして出演者を募っていた。「黄色いリボン
PARTU」で飯山弘章、名和利志子、三浦浩一、純アリスなどが出演。「黄金バット復活版」
で飯山弘章本格デビュー、金井美稚子(見稚子)、川船圭子がデビューしている。
第一期研究生オーディションが行なわれたのは、1977年7月。この時、28名の合格者に
小池健太(真智子)、北村易子がいる。当時は、研究生システムが発足してからも、
基本的に劇団の本公演に出演していた。78年「東京キッドPARTU」が第1期卒業公演。
本番中に何人も辞めていき、最後は8人で行なった。
78年3月、第2期研究生オーディションで大塚晶子、霧生多歓子(隆子)、鈴木康友入団。
78年10月、第3期研究生オーディションで村松明彦、名和利志子入団。
78年にオープンしていた『シアター365』が終わり、キッドは大劇場へと進出。翌79年は、
「サラムム」のテレビ放映、「街のメロス」「オリーブの枝」「哀しみのキッチン」と代表作が
次々と上演された。80年1月、第4期研究生オーディションで古城和孝、磯部弘(邦弘)、
小野剛民(吉己)入団。81年2月第5期研究生オーディションで林邦應(邦応)、萩原好峰入団。
81年4月〜6月、新人公演「朝日のあたる家」が上演され、この時に『KID'80』という呼び名が
新人に使われるようになる。同時期に「恭兵コンサート」が行なわれる。8月KID戯曲集1巻出版。
「青春のアンデルセン」を上演。81年11月、約1年をかけて準備を行なってきた「SHIRO」をもって
渡米。ラ・ママ・アネックスシアターにて約1ヶ月の公演を行なう。82年には日本での公演を経て、
ワシントンケネディセンターテラスシアターで公演。その間、第6期研究生オーディションが行なわ
れ、過去最高の78名という人数をとり、愛・夢・連帯の3クラスに分けられる。北野由美子入団。
82年6月、稽古場兼小劇場『WORK SHOP』がオープン。8月、KID戯曲集2巻が出版される。
83年1月、第6期研究生卒業公演「ワークショップ白書」が上演される。公演後、初のセカンド
カンパニー『コスモス'80』が誕生し、24名が残った。キッド結成から10年以上を経て、ここから、
セカンドカンパニーの歴史は始まった。
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